悪魔の辞典 / アンブローズ・ビアス
奥田俊介・倉本護・猪狩博 訳
角川文庫:昭和41年1月30日六版発行



The Devil's Dictionary, n.【悪魔の辞典】
 当時から現在に至るまで出来の悪い模倣作品を数多生み出した、アンブローズ・ビアスによる、「自称」も含む冷笑屋必携の奇書。

 『悪魔』たる所以は、盲信される既成の権威を嘲り続ける所にあるのだろうが、ビアスが鋭いナイフで以って皮を剥ぎ続ける、醜悪な本質を持つ事物の数々をも『悪魔』と称している、等という下らない解釈をしたくなる。それ程、冒頭から末尾に至るまで慇懃無礼に満ち満ちており、『甘口より辛口の酒を、感傷よりは分別を、諧謔よりは機知を、俗語よりは非の打ち所の無い英語を良しとする』ような『見識ある方々』……一般に『根性が捻じ曲がった』『舐め腐った』『皮肉屋』という不当な敬称戴く人間の忍び笑い(時にはその品格に似合わぬ抱腹絶倒)を誘う、他の辞典とは一線を貸す代物である。

 しかしながら、社会や人生に自棄を起こした、或いはシニカルなポーカーフェイスを保てないほどの怒りに駆られ、冷静さを無くした人々に、生来の穏やかさや意味深長なニヤニヤ笑いを取り戻させるという効用も特記しておかなくてはならない。

 光を以って影を描く、2を持って全ての数を表すようなことを朝飯前にやってくれる上、読者は隠された意図を理解した途端笑いを堪えられなくなってしまうので、用心深く、そして何度も文を読み返す必要がある。


 冷笑、或いは皮肉と云うものは、人間に付与された最も素晴らしい能力である。それによって人は不幸や苦しみを笑い、楽しみ、愛することすら可能にしている。この賞賛すべき不屈の精神から生まれた文学、文化は計り知れない。冷笑とは弱者が持つ唯一にして最大の(しかしながら何の役にも立たない)武器であり、防具であり、娯楽の創造方法なのでであるが、其処に編纂者が持つような教養と品性が織り込まれることによって、俗物の冗談に腹を抱えて笑い転げる事の出来ない、可哀想にも高尚な人種をも楽しませることを可能にしている。

 主に編纂者と同レヴェルの人間を読者と想定しているので、相応の政治・歴史・神学知識と豊かなウイットを所有するインテリでなければ万全に読み解くことは出来ない。

 特に政治や道徳の基盤ともなっているキリスト教について、知識と共に疑問や反感を持っておくことをお勧めする。全編を通して、痒いところに手の届く痛快な『冒涜』が数多く見られるからである。(十誡のパロディーなど)

 ちなみに、時々編纂者の個人的因縁でしかないジョークも含まれていることもあるので、理解が及ばなくとも気に病む必要は無い。訳者も大いに困惑したとの事である。


Ambrose Bierce, n 【アンブローズ・ビアス】
 『悪魔の辞典』という姿で人々に親しまれ、讃えられ、愛されている、素晴らしい作家。新旧の矛盾や不正を鋭く鮮やかに一刀両断し、それとなく未来の予想まで行ってしまう批評家。故に、本辞典は未だに斬新な輝きを持って読み込まれている。

 ジャーナリストとして名を馳せ、軍人としても勇敢に戦ったビアスの経歴は苦難に満ちたものであり、栄華も長くは続かなかった。屈辱の時代、理想への情熱と現実のギャップがビアスを磨き、生来の正義感がそれを鮮やかな皮肉へと昇華させた。序文に記された、出来の悪い偽者と本辞典をきっぱり区別するくだりには、著書への誇りよりも己の見つめる真実への誠実さが感じられる。……と書いておいてなんだが、彼が決して単なるニヒリストでは無かった事を知るのは巻末までのお楽しみとして欲しい。見方が一転すると同時に親愛の情も一層深まることだろう。

 年表によれば、ビアスは1913年、71歳の時に逃避じみた旅に赴き、そのまま消息を絶っている。今頃何処で何を考えているのだろうか……

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