薪能 2007年6月3日・平安神宮
 老若男女国籍問わずのえらい人でした。私達はそれなりに余裕を持って仮設の床の上にスペースを確保できましたが、立ち見のお客さんもかなり多かったようです。座ってるのは座ってるので辛かったけどね……痛いのなんのって。
 とある先生が来てるそうなので幸村と二人で探してみたんですが、結局見つけられませんでした。

 以下思い出しただけなのに興奮しまくりでハチャメチャな感想です。



 氷室(観世流・能)

 亀山院の臣下が従者と共に氷室山を通っていると、氷室山の景色について語る老人&従者が。臣下の質問に対して老人は氷室の歴史や氷の素晴らしさを語り、氷室山の神事を見るようにと薦めて消えてしまいます。
 しばらくすると氷室明神の杜人がやってきて雪乞いをはじめ、あたり一面雪だらけ。二人が雪を集めて氷室に納めると、天女が現れて舞い、ついであの氷室の中から氷室明神が現れます。


 雪乞いをする二人の男性は狂言から借りてきたみたいなキャラクターでしたねぇ。愉快なんだけど、滑稽というニュアンスは全く無くて、見てて幸せになる。旱魃での雨乞いみたいな切実さや悲痛は無くて、なんだろうなあ……豊穣祈願みたいな、行動そのものに豊かさがある乞いなんですよ。

 途中で出てきて舞った天女、ほんとに綺麗だったなぁ……身に着けてるもので神聖な女性だってすぐに分かるし、面の醸し出す表情や佇まいにも神聖な静けさが満ちてて。うっとりした。

 それから、あらかじめ舞台にセッティングされた祠の中から氷室の神が出てきた時はちょっと鳥肌が……!華やかで美しい衣装もさることながら、やっぱり私は面が好きでたまりません。遠めには口のとこが動いて面が謡ってるように見えてくらくらした。


 能では確かに人が面と衣をつけて舞うんですけど、どんな人が演じてるかはあまり関係がないと思うんですよね。キャラクターのアイデンティティは面と衣という表面でガッチリ凝固してて、役者は傀儡を操る人よりももっと存在感が無いというか、むしろその固められた表面の内側に生命を呼び込むための媒介みたいな存在なんですよ。……普通のミュージカルやオペラと比べると分かりやすいかと思います。兎に角ね、「役者が居る」のでもなく、「役者が神を演じている」のでもなく、「神が其処にいる」のよ!!そしてその役は面と衣装が象徴し、表示し、語る。

 能面のクオリティはマジでやばすぎです。若い女性はとことん美しいし、ちょっとした所作や角度で表情が生まれる。「能面のような無表情」なんて言葉はありえないんですよ!!獅子や鬼には切迫するリアリティがあるし、面は人の顔よりもずっとずっとずっと生き生きしてる!


 氷室が終わってからは理事長の挨拶と薪への点火!
 理事長の挨拶ってどんなにつまらないのかと思ったら、手短で要点ばっちり抑えてて行き届いた挨拶で、とっても素晴らしかった。好印象。しかもこの人は後にやった狂言「木六駄」で太郎冠者(主役)を演じるのです。

 薪のばちばち爆ぜる音、時折舞い上がる火の粉、たまに風向きが変わって流れてくるにおい……これもまたいい。


 松風(観世流・能)

 複式夢幻能です!!イエー!

 有原行平ゆかりの女性、松風・村雨姉妹の旧跡であるという松を弔った旅の僧侶。日が暮れてきたので近くの塩屋に宿を借りようとし、其処の主人の帰りを待ちます。しばらくして、海から潮を汲んで帰ってきたのは二人の女性。僧侶が今しがた松を弔ってきた話をすると、二人はぽろぽろ泣き始めます。なんとその二人の女性は松風・村雨姉妹の亡霊。松風は行平の形見の帽子と衣を取り出して彼を懐かしみ、やがてその衣を纏って舞い始めます。浜辺の松の木を行平と思い、駆け寄る松風。叶わぬ恋の情熱に燃える姉を引きとめようとする村雨。どうにもならない想いを抱えたままの二人は、僧侶に自分達を供養してほしいと頼みます。空が白み始め、二人の姿は消え、後には松風が吹くばかり……


 複式夢幻能の何が好きって終わり方です。夜が明けるような、夢が覚めるような、霧が風で散らされるような、この美しい終わり方。霊との出会いは夢か幻か。夜明けと共に終わるのもねえ!旅の僧侶の夢オチかどうかもはっきりしないのがまたツボで。

 ワキの僧が登場して語り終わった後、橋の向こうから出てくる松風と村雨の姉妹が超綺麗!海女ということで着ている白い衣と面が、照明で照らされてやわらかく光る。海から潮を汲み上げるところで扇を使うのですが、扇の端からぽろぽろと零れ落ちる海水が見えるようでしたよ……そして二人は桶に汲み上げた潮の中に写った月を運んでいくのですよ……!月ヶ瀬の伝説(容貌のさえない女の子が、月のように美しくなりたいと水面に移った月を水ごと飲み込んだので、月ヶ瀬の淵には月が写らない)とか、藤原兼家が月を詠む歌会をばっくれた時の云い訳(「今宵の歌会の為にこうして月を取ってきましたが、体が冷えて具合が悪くなってしまいました」という歌を詠んだ文と月に見立てた丸い鏡を届けさせた」)とかを思い出します。月大好きだね日本人は!

 松風と村雨が顔に手をやって泣くシーンはマジで貰い泣きするかと思いました。
 井筒でもあったけど、シテの女性が想い人の着物を纏って舞うの大好きです。なんとロマンティックな悲恋……それでいて、亡き男性の形見の着物を身に着けるということは、再び或る種の契りが交わされるわけで!!切ない。
 舞台中央に生えた松の木を行平と思って抱きしめるシーンは二重の意味で興味深いですね。松風が行平を抱きしめているわけでもあり、行平が松=松風を抱きしめているわけでもあり。はああああ。

 少し強い風が吹いて、薪の煙が舞台周辺を横切っていくのがとってもよかった。風の吹く浜辺がまさにそこに。


 前半二つ、見てるときすごく眠かった。めっちゃくちゃ気持ちよくて、起きたままうとうと眠って夢を見てる感じ……なんていうんだろう、夢に連れてかれた気分なんです。この時空間で眠らせてほしいって思った。


 木六駄(金剛流・狂言)
 さあさあ狂言のお時間ですよーーーーー!!ブレイクタイム。

 太郎冠者は主人から都に居る主人の伯父さんのところにお使いを頼まれて、木を負った牛六駄(木六駄)・炭を負った牛六駄(炭六駄)=計十二駄の牛と、上等のお酒を運んでいくことになりました。外は吹雪、太郎冠者が道中の峠の茶屋でお酒を飲んであったまろうとしたら、なんと酒を切らしているとのこと。太郎冠者は茶屋の主人と一緒にお使い物の酒を飲み干した挙句、へべれけついでに木六駄を上げてしまいます。へべれけになりつつ都に到着した太郎冠者、さて何と云い訳をしたでしょう……!?


 のっけから笑える笑える。謡も聞き取りやすいしユーモラスだしすっごい楽しかった!雪の積もった蓑や笠、お酒を入れた桶なんかの小道具も利いてて。ここでもまた薪の煙が吹雪のようでしたよ。

 牛を追っていく動作も、お酒を飲み干すときの様子も、寄った後のふらつき具合も、ほんとに魅せられましたよー。オチも最高に面白かった。大笑いの日本古典コメディ!!


 石橋[しゃっきょう](観世流・半能)

 或る僧侶が山の中に見つけた橋を渡ろうとすると、樵が「その橋は石が自然に連なって出来た橋で、人間が渡るように掛けた物ではないから渡れない」と止めます。幅は一尺も無く長さは三丈以上、周囲は千尋の谷。しかし向こう側にあるのは文殊菩薩(だっけな)のおはす仙境で、橋の近くでそちらを見ているといいものが見られるのだとか。僧侶が待っていると獅子が現れ、牡丹の大輪の間で見事に舞い踊って去っていく……という話です。

 半能というのは、能の後半の、云わばクライマックスの部分だけを舞うことで、石橋では獅子が現れて去っていくところが後半に相当します。


 百花の王牡丹と百獣の王獅子。締めに相応しい豪華さ、もー目を見張ります!獅子は鬘とか、歌舞伎っぽかったですね。めっちゃくちゃかっこよかった。
 今回は親である白い獅子一頭とその子である赤い獅子が二頭居ました。だからこれまた見ごたえがあって!白い獅子が千尋の谷に子らを突き落とし、その二匹が崖から上がってくる……そんなシーンもばっちり再現されてました。ほんと蹴落とすから驚いたっつーの。赤い獅子が例の衣装着て前転したのには驚いた!



 能に関してこれまで学んできたことも併せ、云い尽くせない程沢山の感想が溢れてきます。架け橋の意味、ワキの存在する意義と意味、舞台の仕組み、神事としての舞、観世親子の生い立ち、世阿弥の経歴、その彼が示した『風姿花伝』……屋外で夜間ならではの味わいにしても、日が傾き暑さが和らいで風が吹き始め、日が沈み風が冷たくなり、星が出始めていくのとか(今日はちょっと曇り空でしたけどね……)、空も周りの森も全部能の舞台へと収束されていく感覚とか……素晴らしかった。ぼーっとしちゃうの。神聖な儀式だしね。

 ただ見るだけでも目に楽しいですけど、歴史だとか意味だとか演目のあらすじだとかを調べてから行くのはもっと楽しいです。すっごく勉強になるし。

 能にはセットや小道具が殆どありませんが、それでも舞台の上に物語の世界が広がっているのが分かります。というか、シテやワキやツレの存在と行動が世界を現象させる。それが「見える」かどうかは観客に掛かっていて、其処で感性の能動性が問われます。そういう点でも此方から歩みよっていくものなのです。面倒臭いとか、何でそんなことしなくちゃいけないのとか思う人は、ハリウッド映画でも見てればいいんです。


 あーあと音楽も凄まじく良かった。物語の舞台である自然が醸し出す音のようでもあり、BGMでもあり、調子を守り立てていくものでもあり……時間の流れを握る重要なファクタでもあり。
 音と云えば、移動(すり足)と足を踏み鳴らしたときの音(床板が鳴る&下の空洞で反響)の差も効果的でハッとさせられます。これは狂言で太郎冠者がベロベロに酔っ払ってる時にも際立ちましたねぇ〜。

 全体として音楽も謡もテンポがとってもゆっくりなんだけど、遅いとか長いなんて全然感じなかった。むしろあの速さが人間の鼓動や呼吸にゆったりと即してて気持ちいいのなんの!時間が流れる速さがすっごくゆっくりになるの。気がつくと1時間経ってて、空模様もすっかり変わってて、話も終わってて、……これもまた夢を見てる感覚に近い。

 使ってた楽器は四つだけだっけか。ミニマルだよなぁぁ。後で幸村から、鼓は紐の締め具合でチューニング(笑)が出来て、一回演じるたびにその都度調整するって聞いたときは、その仕組みへ態度に日本的な柔軟さを感じて感動しちゃったわ。

 こんなに完成された芸術があるなんて信じられる!?


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