フオォォォォォォォォォ・・・・・・・・

風。

絶え間なく吹き付ける髪がわたしの髪を攫っていく。着慣れたトレンチも下ろしたてのスカートも、全てこの風が奪い去ってしまいそう。
この建物は地上何階だったかしら。5階、10階、それとも20階……?……このビルは周りのどの建物よりも高く、広がる街を一望するのにもってこい。ただそれだけで構わない。
そしてそれが一番大事なこと。

青い空には雲ひとつ見当たらない。この空を何百マイル先まで見通せるかしら?
心は既に此処にはない。
足元に踏みしめたコンクリートだけが、飛び去りそうになるわたしをかろうじて地面へと繋ぎとめている。

コツッ

この屋上にはわたしを遮る物は何もない。人も、感傷も、欄干すらも。
あと数歩先には、――――concrete――――




ヒュオォォォォォォォォォ・・・・・・・・



コツッ。











『本日は高気圧が張り出し、終日快晴の見込みです。最高気温は26度、風が強いのでお出掛けの際はジャケットやコートなどを……』


リヴィングのTVから流れるニュースを聞く。洗面所に居たって顔は思い出せる。馴染みの年取ったニュースキャスターの男だ。白髪さえも段々少なくなって、皮膚は加齢でたるんでる。差し詰めもう食肉にもならない老豚だ。でも控えめで頭がいいもんで、降板には至らず局の顔になっている。茶目っ気のある笑顔も評判らしい。


ところで、突然なんだが、俺の部屋のTVは壊れていて画面が映らない。


いつから壊れているのかは定かじゃない。というのも、このTVは他の家財と同じく、前の住人が残していったもので、俺が初めてスイッチを入れた時には既に壊れていた。電気製品の仕組みには疎いから、何処が壊れていて、どう弄れば直るのかは判らない。ついでに言うなら、前の住人がどんな人間だったのかとか、なぜ一切合財を置いてこの部屋から姿を消したのかも知らない。
俺はこのアメニティの不全を補わない。買い換える甲斐性がないのだと言われればそれまでだが、無いならそれなりに暮らしていけると判って以来は、生活を向上させるために血眼で奔走するのが莫迦らしくなってしまった。

毎日毎晩、ソファに座り込んでTVを観る。重い灰色に濁って、時々白や黒がヒステリックに飛び交って、ごく稀に赤とか黄色とかがちらりと飛んでいくアブストラクトな画面を眺める。目を閉じて、目を開けて、延々流れてくる音を聞く。ノイズだけしか流れてこない局を聞き、メロドラマを聞き、コメディを聞き、ニュースを聞く。

そして俺はその奥に居る人間を視る。

その更に奥の心を視る。

新しいTVは画面が映る、だから俺は"視力"を失ってしまうだろう。だから新しいTVを欲しいとは思わない。




今日の目覚めもいつも通り。俺の意思と願望を無視して繰り返される夢、全身を濡らす汗。
懇願しても収まらないフラッシュバック。
乱れた息と焦燥、たまにオプションで叫び声付き。
起床したら先ず風呂に入る。汗と夢を流したいから。涙を拭い去り、時によってはシャワーに便乗して泣きたいから。
風呂上りには檸檬を入れたミネラルウォーターで渇きを癒す。そして大きな音で唸る洗濯機に身を寄せて、振動を分かち合う。



『週末は季節の変わり目に入り、天気が不安定になります。夏から秋にかけてのこの時期、体調を崩しやすくなると思われますので……』




実の所、俺がニュースを見るのに目的なんてない。天気が雨だろうと晴れだろうと俺にはどうでもいい。予報が外れて雨に降られても構わない。
TVの画面が映らなくても構わない。顔を見たことも無いニュースキャスターが降板になっても俺は嘆かない。
或る日叫んで目覚めたら其処が知らない部屋でも構わない。チェストにぎっしり詰まった札束について問われても俺は知らない。


翻弄されて時が過ぎればいい。
乱暴に嬲られて果てればいい。


俺はマゾヒストじゃない、でも、そうやって受身で居るのは気持ちいいから好きだ。


ミネラルウォーターに檸檬の切れ端を突っ込んだグラスを持ち、裸足で部屋を歩き回る。さようなら俺と身を寄せ合う愛しい洗濯機、電気で動く単純な獣。部屋の床に散らばった花が足の裏で潰れる。花弁が床板にへばりつき、雌蕊の粘液が足の裏にねとつく。これはお前達の血か涙か?それとも?
TVと向かい合ったソファに腰掛ける。左の壁の大きな窓から雲ひとつ無い青い空が部屋に滑り込む。目を灼き、血を凍らせる青。此処は虚空か海の底か?それとも?
(ここはどこだ?)
俺の(違う、これは前の住人の、前の住人の、前の住人の)ソファはいつも花で一杯だ。愛らしい白い花。しっとりと濡れた花弁。頑なに閉じた蕾、そっとほころぶ笑顔。漂うかすかな甘い匂い。これは魅力か魔力か?それとも?


刹那、視界の左側がが暗くなる。反射的に窓の方を向き直ったが為にグラスを取り落としてしまった。
俺の目の中には窓の外をよぎった影の一瞬の残像が眼に焼きついていた。落下する影の……落下する、   …………

混ざり合った檸檬と花の香りは、今までに嗅いだ事も無い強烈さで俺の頭を揺らめかせる。
確かなのは視覚だけ。
網膜に焼きついた青と黒と人だけ。









ビルの縁(へり)まで近付くと、途端に下方向の視界が開ける。
地上は奈落の底、そしてわたしが覗き込む時、深淵は見詰め返すだけでは飽き足らず、断れない程紳士的な優雅さでわたしに手を差し伸べる。
眼を閉じれば、谷底から吹き上げる風がわたしの耳に囁く。入れ替わり立ち代り外耳に触れ、鼓膜を撫でて去っていく風が、甘く優しく囁く。

重力に身を委ねろと。


ゴォォォォォォォォォ……

時には獣じみた咆哮で脅しをかけるけど、わたしは生憎野生的なのも嫌いじゃない。
我慢ならないと駄々をこねられたら、冷静にたしなめて身を引けばいいだけなのだけど、でもわたしはそれに乗って自分も牙を剥くほうが好き。
売り言葉に買い言葉、一つのラヴ・アフェアは愛しいでしょ?

だとしたらどのみち選ぶのは。


…… ゴォォォォォ  ……

「穴の開いたお日様に」


風が人の声を借りてわたしの耳元で歌った気がした。反射的に心臓がびぐん、と跳ね、わたしは大きく眼を見開いた。

誰 か 、 横 に 居 る 。

まずは眼球だけで、次に首をぎりぎりと動かして右隣の気配を見る。
肩や腕が触れ合いそうな程近くに一人の男が立っていた。黒い巻き毛が風に揺れて、白い頬や首筋が見える度に眩しさを感じる。
わたしが息を呑んで見つめていることに気付いたらしい彼は、もったいぶった動きで此方を見て笑った。
蠱惑的な眼差しは茶色い影の入ったサングラスでも隠せていない。瞬き一つせずに此方を見つめる眼の深く鋭いこと!
艶やかなあかい唇が訳知り顔に口角を上げる。大胆不敵な笑顔。眩暈がする、眩暈がする、あなたは一体誰、あなたは一体誰……
戸惑いを察してか彼はわたしの耳元に口を寄せる。「可愛い花をはめ込んで」謎への答えはの風の中に在って、低く甘い声でクリアに響く歌。
彼はわたしの眼前に小さな二輪の花を差し出す。「開けたら点々辿ってって」
ともすれば風に千切れ飛んでいきそうな白くか弱い花は、まるでそよ風をその身に受けるように揺れている。
引き締まった体にファーのコートと黒い革のパンツを纏った男がそんな小さな花を手にしている、普段ならわたしはそのミスマッチさに笑みを零しただろう。
でも今わたしの前に現れたこの男とこの花は、わたしを笑わせてくれない。「皆楽しく笑いましょう」








無音も案外悪くない。
スピーカーから絶え間なく音を流し続ける事をやめてから数日、部屋は静寂に包まれて、花の色と仄かな香り、そして窓から差し込む光だけが部屋を満たしている。
床板を食い破って生えた花は、今では俺の腰あたりまでその頭を伸ばしている。握り締めて、引き抜いて、斬りつくしても、ほんの数日で元のように生い茂ってしまう。階下の部屋に死体でもぎっしり詰まっていて、それが養分なのか?柔らかで儚い植物とは思えない生命力はそんな夢想すら思い浮かばせる。ほとんど狂気の生命。それでいながらこの花々は俺の生活や空間を完全に奪い取り、天井まで生い茂る事はしない。そう、「しない」のだ。出来るのに。胸糞が悪い。いっそ俺を締め上げて養分にすればいい。半端な許容も優しさも苛立ちしか齎さないのだから。

時折声が聞こえる。他でもないこの花達が共生を持ちかけて笑う。『一緒に暮らしましょう?悪くないわよ』


は、生意気な……


洗面所に置いた小さな硝子の花瓶にも、その花を幾つか活けてある。初めて活けて以来、水を足しこそすれど、新しい花に換えたことはない。『広い場所へ移してくれて、どうもありがとう』笑う花を横目に、俺は鏡を覗き込む。片手に持った鋏で伸びすぎていた髪の毛をざくざくと斬り、ついでに剃刀で髭も整える。暫くして、白い磁器の上に俺に属していた黒い蛋白質が散らばった。水で勢いよく流してしまうと、そのまま頭と顔を洗う。

ひとしきり辺りに水飛沫を撒き散らした後、俺は再び鏡を見る。鏡の中のびしょ濡れの男を睨む。ありったけの憎しみと嘲笑を込めて、視線だけで殺すつもりで。

お前は俺。だが、お前は俺ではないと。


鏡の中の男は見慣れた三白眼をしている。その眼には俺が込めたのと同じだけの優越と敵意が在った。
奴もまたその目で俺に告げる。『お前は俺。だが、お前は俺ではない』と。


お前は俺の写し身、鏡に映った像にしか過ぎず、実体を伴った俺とは違う。だからそこで大人しく服従していろ――無論そんな考えは遊びにしか過ぎない。そして鏡の中の自分もそれを同意して眼差しを返してくるだなどと。
自身の鏡像と本気で睨み合う莫迦らしさに口元がほころんだ。濡れた髪や顔を拭きもせず、俺は鏡に背を向けて洗面所を後にする。鏡の中の俺は背を向けずに俺を嘲笑しているかもしれない。でもそれも悪くないだろう。

濡れたシャツが肌に張り付く。髪が首筋や頬に絡みつく。体から水を滴らせながら茂みを掻き分けて進む俺を花が歓迎している。まるで手薬煉引く路地裏の娼婦だ。でもこの気持ち悪さが俺には気持ちいい。
お返しとして傷つけるように花々を愛撫してやる。牽制の気持ちをこめて一本手折ってやる。喰らいつく距離で香りを嗅いでやる。足元で音を立てて花が踏みしだかれる。パキパキと茎が折れる音に混じって声が聞こえる。『あぁ何をするの、痛い、ひどい人!』そんな風に嘆いてみせるんじゃない、お前達の顔が笑っているのが俺には見えるんだ。可愛い、可愛い、踏みにじりたいほど可愛らしくてたまらないよ、お前達は。
本当にしょうのない同居人達に背後を許したまま、窓の前に立って街を眺めるとしよう。花と静寂に包まれた部屋で、少し甘い空気と彼女らが作り出した酸素を味わって、何処までも広がる青い空と街を。


今日は快晴だ。


俺があと数歩で窓の側に辿り着くというとき、目の前を何かが落下した。大きな窓をフレームとして、目が決定的な一瞬をカメラのように捉える。
音も無く切られたシャッターはフィルムを感光させ、一瞬の出来事を永遠に保存してしまった。

俺は窓に近寄る事を忘れ、呆然と立ち尽くす。背後で花達がくすくすと笑い、その後黙り込んだ。
スピーカーは数日間黙りこくったままで居る。無音も案外悪くない。静寂、窓から差し込む光、意地の悪い同居人達、そして窓の外の過客。
一瞬の旅で永遠へ至ろうとする、せっかちな過客。



あぁ、まさにこの部屋は花一杯のハーレム。

天国など、いつもいつも目にしている。






「開けてみよう 君の窓」

眼前の野生と知性と色香に、オリエンタルな獣を想起する。歌声は差し詰め官能的な鳴き声。
言葉と声色は絶妙に混ざり合い、聴覚からわたしを麻痺させる。

「当ててみよう ほら 今の気持ち」

差し出された花など目に入る由もない。わたしの眼差しは相変わらず、心を見透かし、そして誘惑する彼に釘付けになっている。
童謡か子守唄を思わせる声。もし彼に微塵もわたしを唆(そそのか)す気が無いとしても、わたしは心の奥底で狼狽えていた。
いきなり現れた彼が一体誰なのかとか、どうしてわたしとともに屋上の縁に立っているのかとか、歌っているのかとか、そういう理由からではない。
毅然たるいでたちでわたしを見詰めるその眼に、心の奥が疼いた。わたしの考えを見透かされ、そしてその先を促されていると感じて畏怖した。

「原子 分子 頂上に至り  風 花弁 揺らし」

サングラスの奥の目がわたしを射る。赤く濡れた唇が歪む。彼は笑っている。
そしてわたしは先へ進まなくてはいけない。現在の邂逅は一時の中断。
彼は待ち、そして待つことがわたしを催促するのだ。
先へ進むように、選択を行うようにと。
どのみち、選択肢など。

目の前で二輪の可憐な花が揺れている。こんなに強い風の中で、花弁を優雅に揺らしながら。









「う、うぅ、うあああ、あああああああああっ!!」
誰の声?どこから?そうか此処だ、この咽喉だ、僕の声だ。


――そう遠くない昔、僕はこの部屋で産声を上げた。


そのときのことは今でもよく覚えている。途端に明るい光が見えて僕は目を閉じた。瞼を閉ざしてもまだ僕の目を鋭く貫く光に頭痛と眩暈が止まらず、直感的にもう死ぬんだと思った。まるで太陽の下に引きずり出された夜行性動物みたいな気分だった。空っぽの胃は強烈な吐き気に歪んで、平衡感覚は失われ、天地の区別も付かない中で僕はのた打ち回った。
自分の体を抱きかかえて転がりまわったとき、僕は自分がしっとりと湿った何かの上に一糸纏わぬ姿で横たわっている事に気付いた。恐る恐る薄目を開けると、床中が真っ白な花弁で埋め尽くされていた。窓の外の目の覚めるような青い空が白い花弁に乱反射している。だからこんなに眩しかったのだ。

しっとりと湿った花弁が体に触れているのを見とめた途端、僕の頭痛と吐き気は止んだ。


どれだけ遠く見積もってもほんの数ヶ月前、僕はこの部屋で<生まれた>。それ以前の記憶はまったくない。過去に関係のありそうな夢一つ見たことはない。両親の顔も思い出せない。鏡の中の自分の顔は初めて見た。ベリーショートのプラチナブロンド、くりくりとした大きな目、すっと通った鼻筋。何人かもはっきりしないけど、けっこういい。綺麗な顔だとすら思った。でも自分の顔としてじゃなく、他人の顔としてそう思ったから、すぐに僕の胸は虚しさで一杯になった。鏡の中の整った顔はくしゃりと歪んで、それにも僕は思ったものだ。あぁこの人を悲しませてしまった、と。

体にぴったりと合う服を着て、瀟洒なソファに横たわって、丁度背の高さに合った姿見を覗き込んで、何度も記憶を探してみる。自分の状態が、酩酊に満ちたあの<誕生>が普通ではない事位は分かっている。何かがあって僕は記憶を失ってしまっているのだ。きっと。

それは何の所為だったんだろう?

お酒の飲みすぎ?
麻薬や覚醒剤の類?
それとも?それとももっと別の何かが?

どれだけ考えてみても思い出せることはなにひとつない。


アドレス帳は真っ白、電話の一本も掛かってこないし、友人の一人も訪ねてこない。世界すべてがひとつの体系を作り上げていて、僕だけが何もかもから孤立していた。環境は完全に無機質で、虫一匹居ない街の中に佇んでいるような疎外感に死にたくなる。僕は寂しい。とても、とても。

日課は自分のものであろうこの部屋から何かの手がかりを探す事だった。僕の身分を証明する何か、過去を想起させる何かがどこかにあるはずだ。記憶や自分の身分に関するものをそうそう簡単に消し去る事などできないに決まっている。

僕の苦痛に満ちた<誕生>を祝福し、今なお辺りを埋め尽くす白い花弁についても勿論調べてみた。でも、書店や図書館の図鑑を探してみても何の花なのかさえ分からない。危険を承知で食んでみても、少し甘くて美味しいだけ。自然の摂理に逆らっていつまでもみずみずしく潤っているこの花弁は、それでも単なる花にしか過ぎないようだ。何の変哲も無い部屋の中で唯一異常なこの花がきっと何かの手がかりになると思ったのに。
僕は<生まれた>ときと同じように、素っ裸になって花弁を被って眠った。何も起こらなかったけれど、ひんやりした花弁が慰めてくれているようで、気持ちが落ち着いた。たぶん羊水の中はこんな風なんだろう。僕がこの揺籠のような花弁から生まれたのならいいのに。そして早くこの花弁に還ってしまえたらいいのに。


誰かに助けて欲しい。不安が僕の体と心を蝕んでいるのが良く分かる。
でも街に出て人々に「僕の事を知りませんか」なんて聞いてみる勇気なんてとてもない。名乗る名前さえない僕が一体どうやって自分についての情報を探し出せるだろう?

神様、もしそこで僕の事を見ていらっしゃるのなら、どうか。

僕は窓に近寄って空を見上げた。蒼穹、そう呼ぶに相応しい青い天の広がり。遥か下に灰色のごみごみした街を抱きながら、それでも空はあんなに穢れ無い色をしている。
窓を開けておいたらあの空から天使がやってきてくれるだろうか?
全能者からの真実の言葉を携え、羽根を厳かにはばたかせながら、この部屋へやってこないだろうか?

そして告げてくれないだろうか、僕は誰で、一体どうしてこんなことになっていて、これからどうすればいいのかを。


大きなダブルハングの窓の鍵に手を伸ばす。と、何かごつごつしたものが指先に触った。針金で鍵がぐるぐる巻きにされている。そこに小さなタグがぶら下がり、僕ではない誰かの字でこう書かれていた。



"do NOT open the window"



一瞬どきりとするけど、この部屋で『自分じゃない』誰かの痕跡を見つけることなんて珍しくなかった。何しろあらゆる物に僕の過去や所有権を見出す事は出来なかったのだから。僕は呼吸を整えてからタグを観察する。日焼けしたクリーム色の紙の上で、黒いサインペンのインキも変色し始めていた。針金の隙間に細かな埃が溜まっていることからも、この窓が随分前に封じられた事が分かった。


誰が、何を考えてこの窓を封じたのだろう。


いや、それよりも、この窓を開けるとどうなるのだろう?


好奇心ではなかった。謎に体当たりすることこそが現状を打破する最後の手段だった。正直な所僕はこの窓を開けたくなんかなかった、でもその窓から遠ざかって、僕は他に何をすることが出来ただろうか。カフェに出かけることもスーパーマーケットで果物を買うことも出来た、道で視線のかち合った人に優しく微笑む事も出来ただろう。でも、それは僕が本当に望んでいる事とは違う。
針金の端を探し出してゆっくりと解いていく。それなりに堅い針金は指に食い込んだが、工具を必要としたり、僕の指先を切り裂いたりする程ではない。

全て解けた針金はたっぷり30センチもあった。タグに付属の細い銀の針金が、太い針金の上を滑車のように滑って、音も無く花弁の上に落ちた。次いで、僕の手を離れた針金が落ち、音も無く花弁を傷つける。長い間閉ざされていた窓を開けるのには勇気よりも力が要ったから、僕は躊躇いを忘れてその作業に取り組む事ができた。

ギゴッ、音を立てて窓が上がり、一気に風が吹き込んでくる。真っ青な空、町は遠く下に広がるばかりで、宙全てが僕に差し出されていた。今やあの偉大な蒼穹が抱くのはゴミだらけの街ではなく僕ただ一人。素晴らしい眺めに僕は思わず感嘆の声を立てる。空は母のように僕を包み込み、僕は胎児のようにそれをただただ享受する。頬に吹きつけ、背後で花弁を吹雪のように舞い上がらせる風。気持ちいい!

僕が嬉しさの余り思わず身を乗り出しそうになった瞬間、風を切ってなにかが落下していった。
影を追うと、それは僕の窓を過ぎ去ってなお、灰色の地面に吸い込まれるように落ちていくところだった。




神様、なんてことを。

なんて物を僕に見せたのですか。




こんなことになるのならまどなんてあけなければよかった。








どうすれば。

進退窮まったわたしは、爆発しそうな心臓を抱えながら、とりあえず目の前の男を見詰め続ける。その白く骨の目立つ咽喉笛を狙うかのように。
でも、まるで彼は自分の優位を確信しているように、余裕に溢れた顔つきを崩さない。
わたしと彼の間の緊張は行き場を失って、わたしの頭に戻ってくる。ぎりぎりと押さえつけられるように頭が痛む。息が苦しくなる。動物みたいな唸り声を挙げそうになる。お気に入りのトレンチと下ろしたてのスカート、淡いピンクの上品なスカートで装ったこのわたしが、動物的な衝動を露わにして。
目の前の彼は不意に手にしていたあの花をわたしの鼻先まで近づけた。これを見ろ。戸惑うわたしにサングラスの奥の黒く濡れた眼が命じる。
眩しい程白い花弁が空間を切り裂くように広がっている。濡れた雌蕊から確かに立ち上る蜜の香りは甘くてとろけそうなお菓子のようで、わたしをうっとりとした気分にさせる。甘い匂いは緊張を和らげ、わたしの頭を濁らせる頭痛を追い払い、安心すら覚えた。一陣の爽やかな風が吹きぬけて、頭の中の霧が晴れる。
この花はとても大事なものに違いないわ。そう、わたしにとって。そう悟ったわたしは彼に微笑んで見せた。茶色いサングラスの奥で綺麗な二重の目がぱちりと瞬きし、彼はとても自然に笑った。やっと分かったんだな、といった様子で。

「さぁ 手を繋ぎ」

わたしは彼の手から花を、彼がわたしの為に摘んできてくれた花を受け取る。ありがとう、と告げたわたしの声は風にかき消され、運び去られていった。
何マイル、何百マイル、何千マイルの彼方。感謝の気持ちは原子に溶けて、遥か彼方まで広がる。


「飛び出そう」

今では慈愛に満ちた表情をして、彼はわたしの隣に立っている。サイドゴアのブーツが少し浮き足立っている。
ここにはもう用事は無いから、だから――――


「青い空行こうぜbaby」


彼はわたしと共に立ち去ろうとしている。

伸ばされた手をわたしは拒まなかった。
他にわたしに残された選択肢は無かったけど、でもそんなものは要らなかった。
少し無骨で、でも暖かみのある手。わたしはこの手を握っていれば大丈夫だから。
はためくスカートはもう片方の手でしっかり押さえておく。
最高のエスコートに対しての茶目っ気。そして、最高のランデヴーに対しての準備。



わたしは足元を蹴って飛び出した。


青い青い空へ。




隣に立っていた彼の姿は遠ざかって、相変わらず屋上からわたしを慈愛の眼差しで見詰めている。でももう一人の彼がきちんとわたしの手を握り、黒い巻き毛と、ファーのジャケットをばたばたとなびかせて共に落下している。彼はわたしを悪戯っぽく見詰めて歌う。「さぁ 切り取って 紡ぐんだ」暖かい手で鼓膜を撫でる声。「虹色世界の為に」讃えるように朗々と。
花を手にした彼と手を繋いで落ちる。世界が舞い上がる。時間が澱み、わたしは切り取られた一瞬一瞬をはっきりと見る。自由落下の速度で流れる古い煉瓦の一つ一つを、過ぎて行く窓の一つ一つを、彼と共にゆったりと眺めている。



彼とまったく同じ顔をした男が花の零れるソファで静かに眠っているのが見える。
花に口付けたざんばら髪の男が窓の内側から感情の読み取れない三白眼でこちらを見据えている。
プラチナブロンドの華奢な男が生まれたままの姿で部屋中に積もった花弁を食べ続けている。


沢山の窓が。(開いていたり、締まっていたり、半開き、カーテンが揺れていたり、)
窓の中の人たちが。(泣いていたり、笑っていたり、睦んでいたり、死んでいたり、)



わたしの、

「Give mam a little kiss」

視界を、

「Give dad a little kiss」


上昇して。











プァ――――――――ッ

パァ――――――――――――ッ パ―ッ パ―ッ


交差点で重なり合うクラクションが、銀色の高層建築とアスファルトに反響して響き渡っている。
いつもなら大して人の寄り付かない古びた煉瓦作りのビルディングの前に、今日は珍しく人だかりが出来ていた。
停止した車の運転席から、黒い髪を無頓着に切った男が不機嫌そうに人々を睨んでいる。
モデルのように華奢な男が忙しそうに歩きながら人だかりを見るたび、プラチナブロンドが太陽にきらきらと光った。
人だかりの丁度中心近くに居る、ファーのジャケットに身を包んだ野生的な男は、
茶色いサングラスの奥から、それを赤い花のようだと思って見つめていた。


やがて彼の車は動き出し、
やがて彼は角を曲がり、
やがて彼は踵を返した。






目は心の窓。

視覚、花、上・下
このへんに気をつけつつ。



2006.08 rewrite  尋野蠎


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