1. 『夢を見る』

 一部の方は御存知かと思いますが、これは私が6月5日未明に見た夢を文章化し、適切な画像を用意してhtmlファイルにしたものです。


 製作者である私固有の疑問かもしれませんが、これは一体と呼ぶのが適切でしょう?

 私が見たものは映像を伴っていたから小説ではなく、台本と役者を用意した上で演じられたものではないから映画でもありません。しかし私達が目覚めて活動している日常で起こった出来事でもない。一番判りやすい呼び方は恐らく「夢」です。


 しかし誰かにそう説明すれば、理解と私自身の感覚との間には齟齬が生じると思います。

 何故かというと、私はこれを見たのではなく、これを体験したからです。夢だとは気付かないうちに、五条寺町を彷徨い、扇子屋を見つけ、雨に降られ、研究所を見つけたのです。


 読み手にはこれが全くのフィクションであろうと、私が(無意識の裡に作り出して)見た夢であろうと関係無いでしょう。

 でも私にとっては一連の出来事はノンフィクションです。私は起きている時と何ら変わらない情動と知覚で以て、一連の出来事を体験したのです。



 プロフィールで申し上げても居るように、私は心理系の学科に属しています。少し脱線すると、私は心理学という学問を専攻しておきながら、学んでいることを恥じても居ます。心理学は時に胡散臭く、役に立たず、誤解され、悪用される学問であり、そして私はそれを偽善や興味ですらない理由から学んでいるからです。

 心理の分野では夢を解釈します。夢分析というものです。その際には夢の中に出てくる事物は象徴として捉えられます――糸は生命だとか、扉は契機だとか。状況や個人によって変化すれど、表層はより深い何かを代弁します。分析者は解釈によって無意識下の心の動きを読み取ろうとします。 (勿論、やりすぎはタブーです。要約や解釈が細部を切捨て、まとめ、主観によって片付けてしまうのは危険でもあり、そもそも夢を解釈することは人のプライバシーにも関わります。)

 心理学における夢の扱いは、一般的なものよりもまだ夢そのものを重んじていると云えるでしょう。
 しかし、私はこの夢の扱いでも、まだ気に入りません。

 夢は確かに何かを象徴し、意識下の願望や恐怖を突きつけてきます。それでも、夢は単なる象徴的な風景として片付けてしまうには勿体無いものです。私はしばしば訪れる繁華街から程遠くない場所に、素晴らしく広く、無秩序で、混沌とした洋館を存在させ、その中を彷徨い、不可思議な出来事に巻き込まれ、恐怖を感じました。この一連の出来事全てを、館は母、筒状の梯子は産道だとかに「してしまう」のは、はっきり云って興醒めですし、下らないことです。(心理学を時折ナンセンスだと思うのは、その歯牙があらゆる芸術作品に無節操に及びがちで、更に「解釈によって堕すること」と「より深く読み取ること」と「謎解き」を、多くの人が混同するからです)

 現実としか思えない夢を見続ける、更にその内容と感覚を現実の記憶のように保持し続ける、そして起きてから再び夢を見る。これを繰り返すと夢と現実の境目は薄れてきます。ポエティックな云い回しを排除すると、夢に馴染むことができます。だからやってみろと云いたいわけではありません。弊害も個人差もあります。ただ、私の場合は、そういう試みを繰り返すなかで、夢を一つの現実として楽しむという姿勢が生じてきたのだろうと推測しています。

 覚醒状態の出来事と同様に夢の中で感じた事や我が身に起こった出来事を見る面白さ。これを人にどのように伝えたらよいか、私には分かりません。ただ、覚醒状態よりも純粋な驚き、慄き、喜びを感じたことや、てっきり現実だと思っていたものが夢だったあの儚さ、歯痒さを懐かしんで貰えれば、私が何をしようとしているかは伝わるかもしれないと思います。



2. "a phenomenon"

 前項で書いたように、私は夢をノンフィクション、或いは超フィクションとして捉えるのが好きです。それが正しいからとか素晴らしいからとかではなく、現実とその並行世界としての夢を等しく扱い、漂う状態が楽しいからです。タイトルの下の「これはフィクションではない」はそういう理由から来ています。無論、あれがあの場所にある時点で、実際に起こった出来事と思って読む人は居ないと判っていますが……。

 当然この文章を現実と捉えれば捉える程(現実だと思わせようとすればする程)タイトルには悩みます。何しろこの一連の出来事は日常のワンシーンと変わりなく生じたのですから、タイトルを付けることすらナンセンスに思えてきます。

 紆余曲折を経て、私はこの文に"a phenomenon"というタイトルを冠しました。夢は睡眠中のひとつの現象であり、不可思議な夢も悪夢も頻繁に見るのなら、それは啓示じみた特別な出来事ではなく、日常的な現象にしか過ぎなくなります。そして覚醒時であれ睡眠中であれあらゆる出来事は現象に変わりありません。これが眠っている間に見た夢であろうと、実際に寺町五条を歩いたことから始まっていった出来事であろうと、ひとつの現象であることには変わりありません。


 ファイルを作っていくうえでの最大の目標は、夢で見たものに可能な限り近づけるということでした。序盤など屋外に居る時の背景画像・半透明テーブル・文字色も、そういう理由からぼんやりした読み難いトーンにしてあります。

 最も苦労したのが背景画像で、夢に出てきた実在しない建物と似通った写真、しかも無料素材で加工自由のものというのはなかなか見付からず、探すだけで随分時間がかかりました。

 途中から背景画像が全画面表示ではなく、左に固定される画面が続きます。ウェブデザインでは見易さの為横幅を800px以内にまとめるそうですが、それも知った上でやりました。というのも文字を追っていると、背景画像は必然的に視界の端にちらりと入るだけになり、文章の性質とコンセプト上なにかと都合が良いからです。それでも、誤魔化さなければ困るような写真は使っていません。catch.htmの錆びた鉄で出来た脊柱か肋骨に似た梯子は、イラストではなく写真です。或る建物のアーチ状の一部を切り取ったものですが、なかなか似ています。(そして作業中に、昔何度も見ていた怖い夢と似た状況であることも思い出せました)もし私が誰かを夢の中に連れて行くことが出来れば、「ほら、此処があの場所だよ」と指し示し、判って貰うことが出来るでしょう。(多分誰も来たくないでしょうが……)

 最近覚えた言葉に「捨てゴマ」というのがあって、これは漫画で説明などの為にどうしても裂かなくてはいけないコマのことを指すようです。私が最中に夢だと気付いていれば、lengthen.htmで終わらせることも出来たのですが、残念ながら今回はそういうわけには行かず、not.htmを作る必要が出てきました。間違いなく捨てゴマです。更に、夢だと判明した時点でインパクトが幾らか薄れてしまうのは確かです。全編にわたって大分納得のいく再現度に出来ましたが、心残りと云えば心残りな箇所です。


 ちなみに、夢の文章化は実はこれが初めてではなく、"maze of haze"の中にある『放浪序章』も、或る日に見た夢を出来るだけ忠実に文字で再現したものです。

 夢を書くこと(ノベライズではありません)は創作を行ううえでの一つのフォーマットにしか過ぎませんが、私が「書くこと」「書いて作ること」を発展させていく上でのキィワードは、此処にも見られます。


2006.06.11.Sun





please close this window and have a good dream ....
















































































































































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