ものをたべる


あらゆることを試みる。あらゆるものの懐疑を試みる。あらゆるものの価値の逆転を試みる。目の前の食事を見詰める。食物について考える。食事という行動について考える。

発端は悪ふざけだったか倦厭だったか?いやグロテスクな写真の載った新聞記事を見ながら食事をしていたあの時かもしれない。相席していた人間(兄だ、それは)とそれでも食事は出来るという話になった。だったら食事の時にわざとグロテスクな事を想起してみるというのは一種の度胸試しだ。

屠殺前の牛の眼差しについて読む。動物が食肉になるまでの過程を考える。羊達の沈黙。屠殺用ヘルメット。原始的な屠殺の方法。生きたまま頚動脈を切り裂き、勢い良く血を。

目の前の食事を見詰める。焼かれた肉について考える。自分が何をしているのかを知りたくなる。(つまり、単なる食事以外の何かをしているに違いないと考えての上で。) 粗末なだけの食事を簡素で好ましい物だと自分に云い聞かせるのと同様に、目の前の食事を動物の死肉として見てみる。逆転を試みる。目の前で食事する家族を見る。

食人になど興味も関心も持ち合わせていない。そのタブーには何のロマンも感じていない。現段階で人間以外に食物が存在しなくなる事態に遭遇する予定はないし、そもそも人間自体好きではないから、摂取したいとも思わない。だとしたら食人の夢を見て思うのは、そんなものを食べさせられるという拷問だ。日頃嫌悪し、食べたいとも思っていないものを食べさせられる、という責め苦。人間を食べるという事柄そのものには大した衝撃は受けなかったかもしれない。それは動物の死肉を焦げさせて食むのと同じだ。ただ動物の種が違う。

あの本の中で、女が灰色の肉の塊を吐き出す描写を憶えている。「これよくないわ」。あの本に何が書かれているのか分からなかったあの頃から憶えている。一度咀嚼され、そして吐き出され、けちをつけられた肉が既に別の何物かに変貌している事に気付き、僕は恐れ戦いた。


こう云っては何だが(あぁ君たちという人間そのものは愛しているのだ、友よ)食事をしながら生物にまつわるグロテスクな事の一つも考えられない人間なんて碌な者ではない。

ガンジスの水を飲めとは云わない。

でも無知で無恥な人間が快楽だけを貪る様は見るに耐えないと思わないか。



食事中もそうでない時にも、食事と関連させて想う。かつての胸の張り裂けるような家族の食卓を、毎夜の吐瀉物を、殺した虫を、傷つけた体を、腐敗した食物を、踏みにじり踏みにじられた食の尊厳を。


だから、ひどく不味い人肉を食べる夢を見て不快な気分に陥ったとしても、それは僕が招いた夢だ。

試みの結果だ。

僕が見たファンタジーだ。




最後に、この食にまつわる一連の試みに対してひとつ云っておかなくてはいけない。僕は食事を楽しむことは大いに素晴らしいと思っているし、冒涜したって食べずに生きていけないのなら、素直に己の無力を認めて、食に感謝するべきだと考えている。そして僕は自分の食事を貶めても君の食事を貶めるつもりはないし、誰かと食事をするときは相手と食事そのものに多大なる感謝の念を抱いている。独りで食べる食事程味気なく虚しい物は無いからだ。

 それでも、君はこれから食事をすることを、肉を食べる事を、或いは食肉と化し得る人間の体を畏れるだろうか。

 そしてこんな事を考える僕を。







あとがきっぽいもののあとがき

食というのも多角的に論じられるものですが、この後書きでは主に「食べる物(対象物)の変貌(するということ、させるということ)」に絞って書いてみました。

その身にまとう虚偽を次々に着替える真実たち。です。このサイトの文は全て。



2006.08.xx

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