passion of lovers


これが最期とばかりに燃える夕日の光を受けて、辺りは一日で最も眩く輝く時間に突入した。砂漠の岩は黄金の壁に変貌して、 砂の一粒までが金そのものに変貌している。周囲は光で満ち溢れ、一層濃くなる影はそれを欲する手のようだ。

岩肌の上の焔が直ぐに消え去るのは疑いようもない。瞬きをする間にも太陽は傾ぎ、軽やかに広がる濃紺は太陽が残していった 熱と光を吸い取り、代わりに空に星を散らす。劇的な夕焼けを失う代わりに、静かな夜がやってくる。

でも、その推移は絶対にやってこないのだ―― 一枚の絵画を見詰めながら彼は思った。

既に太陽が沈みきった美術館の中に人影は見当たらず、宵の冷気が静かに絨毯の上に滑り込んでいた。彼が一見放心したように、その実凄まじい集中力と執念で絵を見詰めている間にも、実際の時間は過ぎ去り、空に静かに瞬き始める星もその命を確実に消費しつつあった。闇は忍び寄り始めた時既に去ろうとしている。

彼の心は永遠の夕焼けの中に在り続けている。

絵画の主題は画面中央で身を寄せ合う二人だ。ヘクトールとアンドロマケー。冠されたタイトルのみでこの男女の名前を知った彼は、イリアスに登場する二人がどのような末路を辿ったかは知らなかった。幾何学的とはいえ歪な二つのトルソは少なからず見るものの不安を煽る筈だったが、彼にはそれは内側に狂おしいpassionを秘めた恋人達に他ならず、マネキン人形だとは意識的にも無意識的にも思えなかった。

ヘクトールとアンドロマケーは、互いを抱きしめる腕も持たずに身を寄せ合っている。重力によってばらばらになってもおかしくないような木偶がこうして境目も判じ難いほどに寄り添っていられるのは、神の力でなければ一体何のお陰だというのだろう。空は殆ど夜の紺色に覆われ、眩い金は水平線の上で褪せて死に絶えつつある。もしこの暖かみが完全に奪われ、燃えた岩肌が氷のように冷え切ったとしても、二人は変わらず佇んでいるかもしれない。夜が訪れきった瞬間に神の愛が消えて、二人が本当に幾何学的な部品になってしまうという空想も生まれかけたが、膨らむ前にそれはぱちんと消えてしまった。変わらず佇み続ける恋人達は何度の夜明けと夕暮れを迎えるだろう?酷な砂粒は彼らを風化させるだろうか?彼は最初こそ何一つ命の見当たらない砂漠、夕暮れが過ぎつつある未知の世界に心を奪われ、其処に行きたいとも思ったが、今では中央の二人しか見ていなかったし、どちらかに成り変わりたいと切実に願っていた。他に展示されているどんな素晴らしい風景画も、艶やかな宮廷の様子も、悩ましい女性の姿も、これ程までに彼を捉えはしなかっただろう。

彼らは自分には無いものを持っている、そして自分はそれを手に入れることは無い――
それを余りにも鮮やかに直感してしまった彼の目からは涙が次々と溢れて、いつまでも頬を濡らすのだった。


彼は日が暮れたことを認められない。



(Giorgio de Chirico / Hector and Andromache [1917])



絶・望・的。
2006.10.15

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